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邱永漢、渡部昇一が書いた「アジア共円圏の時代 ー さらばアメリカ」を読んだ。
20年以上前の本なので、今読むとおかしいところも多いけれど、それなりに楽しく読むことができた。
帯には「ドルが紙くずになる日は近い。日本の繁栄がアジアを繁栄に導く!」と書いてある。
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書籍:「アジア共円圏の時代 ー さらばアメリカ」
著者:邱永漢、渡部昇一(きゅうえいかん、わたなべしょういち)
出版社:PHP研究所
平成6年9月21日第1版第1刷
平成6年10月6日第1版第2刷
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【コピペの出処】
本田宗一郎が邱永漢の家で食事をした時に言ったこと。
86頁87頁、邱氏の「台湾は日本の一番弟子」より
台湾の場合は、もともと日本との関係が深かったために、日本の企業が比較的入りやすかった。言葉も通じますし、それがお互いに幸いしたのではないでしょうか。
昔、本田宗一郎さんが私の家に来て食事をごいっしょしたことがありました。そのとき、「本田さんのところでは、外国に何軒、工場がありますか?」と尋ねたら、「三五軒」とおっしゃったように記憶しています。そして、「その中で、一番うまくいっているところはどこですか?」と尋ねますと、「台湾」とお答えになり、「台湾に行くと、台湾の人がみんな、私に『こうやって自分たちが仕事をやれるのは、本田さんのお陰です』と言って、ものすごく丁重に扱うのです。ですから、胸に一物もっていても言い出せない」とおっしゃいました。この本田さんの言葉は、日本と台湾の関係を象徴しているように思います。
ちなみに、一番具合の悪かったところはどこですかと、本田さんに尋ねましたら、「韓国」とおっしゃった。「どうしてですか?」と尋ねると、「向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、金を返してもらった。その翌日に朴正熙が殺されたんだ」とおっしゃった。
同じ日本の旧植民地だったところですけれども、日本人と肌が合うところと合わないところとあるようです。
(「熙」は正字)
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【日本の新聞社は中国共産党に逆らわない】
中国で取材できなくなることを恐れ、中国共産党の言いなりになる日本の新聞社。
109〜111頁、邱氏の「「台湾の体験」が中国を理解する鍵になる」より
台湾独立を主張したために政治犯となり、ずっと亡命していた私が台湾に戻ったのは、昭和四十七年のことですから、ちょうど二十二年前になります。…(略)…
…(略)…
…(略)…、あのころは本当にいろいろと神経を使いました。たとえば、台湾入りするときに、「週刊新潮」の編集者を連れて行ったことなども、その一つです。なぜ、そんなことをしたかと言いますと、私の身になにか起こった場合に日本のジャーナリズムに事の真相を書いてもらうためです。
普通ならば、新聞記者を連れて行けばよいのですが、私が新聞記者でなく「週刊新潮」を選んだのは、日本の新聞があまりあてにならないと考えたためです。当時、すべての新聞社が台湾に特派員を派遣していなかった。中国共産党から「台湾に特派員を出すなら帰ってくれ」と言われて引き揚げていたからです。一社ぐらいは反対の立場を取るかと思ったら、まったくなかった。そんな状況ですから、新聞は頼りになりません。誰に同行してもらうかということを考えた末に、とにかく創価学会も怖くない、共産党も怖くないという「週刊新潮」が思い浮かんだのです。こういう週刊誌だったら、私が台湾で捕まったとき、一生懸命、書きたてるだろうと思いました。…(略)…
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【台湾の少数民族】
155頁156頁、邱氏の「一つの中国が駄目なら三つの中国でいい」より
また台湾と中国の関係ですが、私自身は「一つの中国」で駄目なら、大陸、香港、台湾と、三つの中国でもいいと考えています。…(略)…
…(略)…
ただ、「お互いにいっしょにならなければいけない」というリップサービスは、いくらやってもかまわない。台湾には国民党と共に大陸からやってきた人たちが三〇〇万人ほどいて、台湾の本土化に対してはそれなりに、強い反発を持っています。現在の台湾は実質的に独立しているのですから、「一つの中国」を口で言って、物事はゆっくり運ぶのが一番摩擦の少ない方法だと思います。私は李登輝さんに「あなたは台湾人のことなんか考えんでよろしい。大陸から来た三〇〇万の人たちがあなたのことを支持するように仕向けて下さい」と言ったことがあります。李登輝さんは頭の回転の速い人ですから、「どこの国でも少数民族が一番厄介だからなあ」と頷いていました。